やきもの日和

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長谷川櫂氏講演「わかれの加賀路」

山中温泉こうろぎ橋

 山中温泉、山中座で行われた長谷川櫂氏の講演を聞きました。奥の細道の朗読をはさみながらの楽しいお話でした。題は「わかれの加賀路」。良い題名ですね!

 

氏は、まず、「「奥の細道」を四つに分け、、往路の出発から歌枕を訪ねる前半、、と、、主な目的であろう奥羽藤原氏の栄華の跡を訪ねるまでを栄枯盛衰諸行無常の世界観の道とみる。

 それから、日本海側に出る。いわば復路のその後をまた二つに分けて、山形・新潟での、日、月、銀河など宇宙的な句の目立つ悠久の時空と、それを経て加賀路に至ってまたこの世に戻ってくる運び。

 

 市振の宿での遊女とのつれない別れから金沢の俳人一笑の墓での慟哭の句、そして山中での曾良との別れ、と、たしかに加賀では。わかれの句が多い。「わかれの加賀路」なるほどですね。

 

 しかし、往路での文学的世界から、軽みの世界に抜け出るとしても、それが、なぜ「別れ」でなければならなかったかについてのご説明はありませんでした。もちろんこの世のさまざまなこと、モノのなかで「わかれ」は悲痛なものです。

 私は、研究者でもないので漠然と考えているだけですが、芭蕉に、加賀路で、「別れ」を持ってくる、理由があったとすれば、それは、西行と西住のわかれのイメージであったのではないか、と思います。

 

 芭蕉にとって、西行は大きな存在でした。旅をすることも、そして芭蕉が果たせなかった発心出家することも、どちらにおいても憧れの人物でしたでしょう。

 

 加賀で、西行は西住と別れて泣きながら歩き続けた、といいます。おそらく今生の別れか、と思えば悲しいのは、わかります。しかし、そこに一種の狂気というかデモーニッシュなものがあるように私には思えます。西行自身、自分の中のデモーニッシュなものに気づいていた。だからこそ、崇徳院にも惹かれ、院を慰められるのは自分だと思っていたのではないでしょうか。

 芭蕉もまた、軽みの世界を見出したと言っても、それは禅家で言うような悟りを得た後、何でもなかったように過ごす「帰家穏座」の状態ではなかった。

いわゆる「文学的なるもの」から抜け出ようとこの世のトリビアルなものの中に軽みの味を見出しても、同時にそれは煩悩いや懊悩の味だった。

 

しかし、それはそれでまた一興というものでしょう。落魄こそ、最高に粋だ、誰かが言ってました.弟子たちの党派意識に悩まされ振り回される晩年の芭蕉の姿も、また一入の風流かもしれません。

講演を拝聴した帰り道、そんなことを考えました。