やきもの日和

やきものを作ったり俳句を作ったり

青の太陽

金津創作の森美術館の「久保寛子 青の太陽 緑の月」展をみてきました。

青いタイルの鳥人が美術館の前で瞑想にふけっています。

下から見上げる位置で撮ったせいもあるでしょうが、人の下半身の上に鳥が止まっているように見えますね。胴が長いなーという感じ。好きな作品だったのですけど。

森の中の三体のスフィンクス。美しい。透けているところが軽やかで、且つ、いかにもapparition っぽい。

 

綺麗なお顔。タイプです。

 

お尻に止まった青い蝶は、会場のあちこちに顕現していました。

産業ゴミ みたいな素材がエッジの効いた存在感をかもして、かっこよかった。

野外作品の展示された人っ子一人いない野原みたいな場所は、好きなんだけれど、このところ福井県は熊が頻繁に出没しているので、やや不安。

夜になったら、熊さんはじめ野生の動物たちが、スフィンクスを礼拝してるかもしれませんね。

美術館内の作品も、面白かったですけれど、一番と二番に好きな作品だけ、のせておきましょう。

去年のメキシコ滞でインスパイアされた作品群だそうです。いいですね、久保寛子さん。お名前憶えました。注目していきたいです。

 

スフィンクスほ問ひやまぬ木下闇   おるか

 

こちらのスフィンクスたちは超然としてましたけどね。

菖蒲の香

菖蒲をいただきました。葉先まで、まっすぐ健やかな見事な菖蒲です。そういえば山の向うで昼花火の音がしていました。

山代温泉の菖蒲湯祭りでしょうか。紅白の法被の若い衆が菖蒲神輿を引き回して、お湯に入れ、にぎやかなものです。夜店も出ているのでしょう。

万葉集のあやめぐさ、は薬効をうたっているようなので、このサトイモ科の菖蒲のことなのでしょう。「蘰にする」云々とありますから、頭に巻いたりしたのでしょう。かなりつよい香りですから、かえって酔いそうな気がしますが。

しゃしんでは菖蒲に蓬も添えてありますが、これも万葉の昔からのこと。大伴家持に

 

「大君の任のまにまに」 からはじまって

「ほととぎす来啼く五月の菖蒲草よもぎ蘰き酒宴遊びなぐれど」云々〈巻18-4116)と続く長歌があります。

 

家持の菖蒲の歌は初夏を待つ気分の

 

ほととぎす待てど来啼かずあやめ草玉に貫く日をいまだ遠みか

 

など有名ですね。玉に貫くのは根を刻んで薬玉とか匂い袋みたいにしたのだろうとおもわれます。

邪気を払う菖蒲の香り。今夜は菖蒲湯を楽しんで、一年の無病息災を祈ることにしましょう。

菖蒲の香山の向うの昼花火  おるか

六月のランチ

ホームページの更新がうまくいきませんのでこちらにおいておきます・

入梅のころ



薄暑というには、空気が重い。そろそろ梅雨入りなのか、と感じるこの頃。

物憂い気分も、そんなにきらいでもありません。

いつでも元気はつらつだったら、それも怖いですよ。

 

静かな雨は、好きです。緑がひとしお鮮やかに見えますものね。

 

 さて、手前の小菓子鉢、呉須赤絵と対照して、青呉須手と呼ばれたりしますが、あまり手掛ける人は多くないようです。私は、この絵ちょっと気に入ってますけどね。石の橋を渡ってる女性とアヒルを描いています。漢詩は蘇東坡の詩。小雨の日には似合う気がして。

 

 そんな鉢に冷ソーメン。本格的な夏になると、氷を入れたりしますが今ならそこまで冷たくすることもない感じ…かな?

 

そば猪口は染付の朝顔模様。その上芙蓉手の小鉢は、胡瓜とタコ、ワカメの酢の物。

角皿は染付の上に赤絵を加えた夕照帰帆図、と私は呼んでいる図柄です。

 

左側のサーモンのマリネが乗っているのは蔓薔薇模様のお皿。六月は薔薇のきれいな季節です。五月の薔薇の明るさはもちろんステキですが、けだるい風情も又一興。

 

その向こう、阿古陀瓜形の鉢に、笹の香りがほのかにする葛饅頭。

さて、お昼を食べて、また一仕事しないと。

夕食後も仕事するので、二仕事っていうのでしょうか。昨夜の月もきれいでした。

 

水盤をつくらむ梅雨の月飼はむ  おるか

 

   20260602

 

オオバギボウシの芽を

食べました。ヨーグルトソース添え。

今年も、昨日の雨で急成長しちゃってました。

芽は三本挙がっていましたが、二本食べたら、ギボウシさん本体としては、やる気をなくすんじゃないかと思いましたので、一本だけ。

採りたてオオバギボウシの味は、往く春の楽しみの一つです。

五月になれば、さまざまな山菜の旬になりますが、それらにさきがけて顔を出してくれるオオバギボウシは癖もなく、食べやすく良い食材です。

 

 山菜も、路傍の雑草も、食べられると言えばたべられますが、下ごしらえが大変だったり、味がいまいちだったりするのも多い。

野菜として選ばれた植物は、味も触感も、そして収穫量もOKな、選び抜かれた植物なんだな、とつくづく思います。

さて写真右上にちょっと映ってる葉書は西原天気さんの「はがき俳句」です。ずいぶん長く続いていますね。【継続は力なり」といいますが、すっごい力持ちでいらっしゃいます。

海よりもひらたく春の眠りかな  天気

 

良い句ですねー。海は、のたりのたり したり、たまに怖かったりもします。春の眠りは海よりも静かに広い!

 

欄干に凭れて春を惜しみけり  天気

 

こちらは、古典的ですね、何というか杜甫や陸游や、東洋文人の伝統すら感じられます。異彩西原天気さんにしてこの句あり。日本の春はあまりに美しい。

 

しだれ桜の里

 お天気が良かったので、山越えをして、福井県の枝垂桜の里へ行ってみました。染井吉野はもう葉桜ですが、枝垂桜なら、まだ多少は花が残っているかもしれないと思ったので。

 それに、以前行ったときは駐車場が満杯で、入れなかったので、残花のころともなれば人も少ないだろうと思いましたしね。

 予想通り、他の品種は、ほぼ葉がちになってましたけど枝垂桜はまだまだきれいでした。。しかし、誰しも考えることは同じと見えて、人出はそこそこありました。駐車場もほぼいっぱい。

花の彼方の山の形が良いのが好き。

 ただ、公園のど真ん中に大きなテントが張られていました。そりゃ、花の下に宿りをして「花ぞ今宵の主なるべし」とばかり夜桜も昧爽の桜も眺め暮らすのはステキでしょう。でも、写真を撮るのには、ちょっと邪魔でした。

ここは、それほど巨木があるわけでもなく、こじんまりした静かな山間の地です。傍らを流れる川の水も、ふつうにきれい。息をのむ絶景というわけではない、なんでもなくてなつかしい景色です。

しばらくぶらぶらして、山道を帰りました。

道の途中の一本の桜、見る人もないけれど、光を浴びて立っている。満開ですね。山々の新緑が美しい。

 

 

 

往く春の

刻々に移り変わる時を惜しんでもむなしい。わかってはいるけれど、朝毎に、おびただしい落花を踏んでは、逝く時を惜しみます。

 論語にも「逝くものは斯くのごときか昼夜をおかず」とありました。

道元も、「花は愛惜に散り草は棄嫌に生うるのみなり」と書いてます。一見「らしくない」発言のようにも受け取れますが、愛惜の心という内的要因と外部からの機縁が同時に顕在化すると言っているのかな、啐啄同時ってやつでしょうか。

葉の裏に残んの花を探すのは、思い切りが悪いのかもしれません。でも残花も余花も、また良いものですよね。

落花なら踏むべし道は迷ふべし  おるか

 

辛夷の幹から咲き出でた最後の花。桜の古木の幹から直に花の咲き出すのは、往々見かけますが、辛夷は初めて見ました。枝先の花はもうすっかり散ってしまいましたのに。なにか夢のよう。

先生のゐまさず辛夷咲きたれど  おるか

 

黒田先生の逝かれた日も山盧の辛夷が咲いてました。

 

 

花を送る

一日中、雨でした。小雨の中に佇む桜を眺めながら、去り行く季節に盃を揚げました。

シチリアのロゼはやや色が濃い。ピンクのお酢は甘口でなににでもあいます。

真ん中の平皿に黒部のリコッタチーズ桜。この季節、リコッタチーズを食べるのが、何となく例年の習慣になっています。今年はヤギの頭数が減ったとかで希少なんですって。ピンクのお酢と胡桃のサラダ。

 染付さくらの小鉢は、アボカドとリコッタ。

そして、手前の碗筍のお吸い物にリコッタ。旨味が出ると伺いましたのでやってみました。美味しくないわけはない。桜の風味が、顕つかとおもいましたが、それほどでもなかった。

散り行く花。橋の上を花びらが埋め尽くしています。

ああ、今年の春も往く。

 

花送る一日や口をきかずをり  おるか