やきもの日和

やきものを作ったり俳句を作ったり

ミケの薔薇

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我輩はミケ。猫である。
夏の花はすでに往き、秋の花は、まだ日差しを避けている。しかし家の中にはときじくの花が開くのである。ムフッ。
薔薇色のシーツの真芯にまどろむ我輩。ムフッムフッ!


薔薇よ、
かくも、あまたの瞼のしたで
誰のものでもないねむり
おお、その純粋な矛盾、喜びよ

リルケの墓碑銘だそうである。さすがに美しい。我輩の眠りもこの詩のごとく、永遠の眠りの中に目覚めている。我等、猫族の眠りほど甘美な眠りを人間は知るまい。

俳句を意識したのではないかともいわれる短い詞章である。

 しかし、もし俳人だったら、最後の「純粋な…云々」はカット!であろうにゃ。
俳人というものは「説明的」という言葉を蛇蝎のごとく忌み嫌う。「それは説明的だ」といわれるとオルカもがっくりと肩を落として黙り込む。説明的と非難されたらそれ以上の説明は出来なくなってしまうから、もう決定的に×印をつけられたようなものである。

 たしかに、俳句のような極短の形式で「ああだからこう」と説明してしまったらありふれた標語みたいなものにしかならないのは、わかる。ありふれた分かりやすさと誰もわからない意味不明のあいだの二河白道を渉るのが俳句の道かも知れにゃい。


万人の共感する句は掃いて捨てるほどある。万人をおどろかす句も、ある。
しかし、万人のおどろき、かつ共感する句は、すくない。