やきもの日和

やきものを作ったり俳句を作ったり

わざを盗むということ

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 キッチンで、洗い物しながら考えた。

 職人技をおぼえようとするとき、よく「盗め」といわれる。
職人は教えてくれないから、と。
別に職人さんは隠しているわけでもなく、めんどうくさがっているわけでもない。いうにいわれないことがあるからなのだ。
「こうこう」と示してわかるくらいのことは、陶芸教室や研修所に行けばすぐ教えてくれるし、独習書もある。学校もある。
ただ学校で教えてくれるのは、すでに出来上がった「時代の妥当と考えているもの」でしかないから、どうしても、今これから作って欲しいものとの間に、時差がある。
 先生の教えを素直に鵜呑みにした良い子は、教えられたとおりのことを見出そうとする。しかし現場では、必ずそうはいかないことにぶつかる。盗むべきものはそこにある。

 たとえば職人仕事というと、”ぴったり揃った出来上がりの器を手早く次々と作る””毛ほどの乱れもない細かい線を正確にひく緻密な仕事」などのイメージがありがちだ。それはつまり、大量生産の中で高品質のものを作るという、これまでの時代の価値観を反映しているのかもしれない。手早く正確に作ることは、そういう時代に求められた技なのだ。
 それは勿論だいじなことだし、人間工学に基づいた、無駄のない機能的な製品は、クールだ。

 しかし、いまの時代に手作りをするのは、”効率”とか”機能”とかに収まりきらない、そこから零れていってしまうものが欲しいからなのではないか。
一客の碗がなぜこんなにふっくらと手の中にまろやかなのか、なぜ日々眺めてあきないのか、説明しようとしても指の間から砂の零れるように、言葉の間からこぼれてしまうものがある。そんな言うに言われないものに惹かれて、一生を棒に振ってしまうのが作り手で、私もその一人だ。

 だから、恥ずかしくて「教えてやる」なんて、上から目線なことはとてもいえない。盗みたくなるような、わざとかこころとかいうものが不思議で、おもしろくて、もう少し、もう少し、と思い悩んで日々を過ごす。こうなると技(わざ)ではなく業(ごう)というべきかもしれない。

写真はシンクの前のタイル棚に並ぶものたち。葉っぱはモロヘイヤです。