やきもの日和

やきものを作ったり俳句を作ったり

花を生けるということ

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紫陽花の花頸は、意外にごつい。葉っぱも大きくて面白みがないので思うさま切り落とす。来年の花のためとはいえ、首だけを切って大皿に盛り上げる。
凄惨な眺めのはずである。しかし美しい。

もともとあった場所の調和の世界から切り取られ、断片として異界に運ばれた花の痛みが美しさを増すのだろうか。
我もまたいつか、否応なく慣れ親しんだ世界から切り離される、そのことの、まねびに倒錯的な甘美さをおぼえるのだろうか。

生きものの、存在の意味を無視して、かってに「美しい」というレッテルを貼ってしまう。傲慢なのだろうか。

 小林秀雄の有名なお言葉「美しい花がある、花の美しさというようなものは、無い。」この断言はカッコいい。
ここだけを取り上げて、「花の哀れというようなものも無いのか?」などと揚げ足取りをしても無意味なことはわかっているつもりだ。全文を読んだのは遥か昔のことで忘れてしまったが、能楽の花という概念に触れたりしての流れの発言だったようなうろ覚えな印象がある。演劇の世界の”花”体験は演者と見者の両者の間に一期一会に生れるものだからさもあろう。幕が下りれば、夢から醒めたように、消えてしまう花なのだから。
 とはいえ、同語反復的な印象は消せませんけどね。

花剪り鋏で太い枝を切る時、きっとわたしは夜叉の貌をしているのだろう。