家の前を一筋の川が流れています。一日はそのせせらぎの音の中で明けてはくれて行きます。
普段はいたって穏やかな流れですが、昨今のような大雨の時は、川底を岩の転がる音がして、恐ろしい気もします。
水は山の畑地を潤した後、村落の家々の間を縫って田へと流れ込みます。丘陵からの出口のあたりに弥生時代の村落の遺跡があって、そんな昔からこの小さな谷あいに人が棲んでいたのだな、起き伏しに川の音を聞いていたのだなとおもいます。
「秋の水」という季語があります。秋になってみずが澄み切って冴え冴えと感じられること。「水澄む」『水の秋」等も同様です。
逆に「春の水」は「水ぬるむ」季節の生命の気配をはらんだ濁りを感じさせます。濁りが生命なら、澄み切るとは、死の方へ顔を向けたということでしょうか。
もう、秋だ。 しかしなぜ永遠の太陽を惜しむのか
とランボーは初期詩編の一節を始めています。滅びゆくものの、澄んだ輝きに満ちた詩句です。
水底の岩陰に、昔はヤマメがいたものですが、もう何年も見ていません。夏でも冷たい渓流の冷ややかさが手に沁みます。
往く人の皆秋水に触れにけり おるか