やきもの日和

やきものを作ったり俳句を作ったり

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枯れゆくものの美

  すべては、うつろう。滅びゆくものは、どうして美しいのだろう。「都市の廃墟もいいけど、人間の廃墟(墓のこと)を見る方がいい」とマルドロールも、たしか言ってたみたいな(うろおぼえ)。

 昨日、京都大徳寺真珠庵での句会に参加しました。観阿弥世阿弥の墓、侘茶の祖 村田珠光の墓もある一休禅師ゆかりの塔頭です。句会では

 

  柚子の実の高し珠光の墓小さし  杉田百合代

 

という句がありました。近くの柚子の木の高いところに実が残っていた実景と侘びを極めた御方の自然石のお墓の取り合わせ。机の上だけではできない句です。常套を超える、現場の光景ですね。

そのお墓の佇まいに感銘を受けた参加者は多く、「…ちいさな墓に大茶人」というような句もありました。「大茶人」という表現がちょっと散文的ですが、句会の参加者には誰の事かわかっているし、茶人とまで言う必要もなかったのかもしれないな、と、帰りの電車の中でおもいました。それにつれて考えるうちに芭蕉の句を思い出しました。

 薦を着て誰人います花の春  芭蕉

 

という句のこと。

乞食の姿で遊行漂泊の生き方をしている、真に悟った人が、当時は本当にいたのかもしれない。ひょっとして芭蕉は実は「あの方だ!」と知っていたかもしれないとさえ考えました。そこで、あえて無名を貫いている人物の名前など出さないのも心栄えというのかもしれないな、と。

真珠庵の名前の由来、 清貧を貫いた庵の床に降り込んだ雪を、「真珠のように美しい」といった心栄えに通底するかもしれません。

修行求道の厳しさなんて下手に真面目ぶったら、ださいんですよね。

その真珠の雪ほど美しい雪は、見たこともありませんね。これは永遠の白さなのかな。だとしたら、うつろいは永遠の相の下に輝くのか