やきもの日和

やきものを作ったり俳句を作ったり

唐草唐草

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 唐草文様は不思議だ。壺の曲面や四角い額縁や、どんなかたちの上でも自由に増殖し繁茂して埋め尽くす。それ自体が命を持っているかのように見るものの視線をその渦の中に巻込んでゆく。
 数千年も昔から人は唐草文様を描きつづけてきた。人のDNAのなかには唐草に魅了されるなにかがあるのだろうか。以前、黄金の柳の枝のような唐草が立体的に絡み合っている夢を見た。それはそれは美しくて、目が覚めてからも高揚した気分だったが、あれはDNAの二重螺旋に似ているのではないかと思った。唐草文様は生命の原像を直感させるのかもしれない。

 唐草文様は変化しながら繰り返し続ける。メソポタミアの生命の木は、クリムトの絵の中に再臨し、エジプトのロータス唐草はインドを経てシルクロードから中国にいたる。日本には仏教美術と一緒に入ってきたという。正倉院の御物の唐草文様のきらびやかさには驚かされる。もちろん日本には縄文以来の長い文様の伝統があったからこそ唐草文様もすんなり受容されたのだろう。平安時代になると日本の風物を取り入れて唐草も和様化され、てくる。
 そういえば、源氏物語もすぐれて唐草文様的な作品ではないだろうか。「紅葉の賀」「花の宴」で舞った若き日の源氏と頭の中将は源氏四十賀の祝宴の夕霧と柏木の姿に重なり、源氏と藤壺の関係は柏木と女三宮に繰り返される。それらが華麗な四季の風物を取り込みながら、あるところでは文学談義などになって繁茂したり気ままな花を咲かせたりもする。以後の日本の文学の中に徒長枝をのばすように増殖し続けるのも唐草的生命力だ。

  唐草に彼の世を封じよな曇   (よなは漢字がでませんが黄砂のこと)

 さて、今日は徳利に赤絵の唐草を描いた。明時代の成化、万暦の赤絵最盛期より古い、古赤絵のスタイルをイメージしてみた。古拙な味わいがすきなのだ。写真ではわかりにくいが、三種類描いてみた。唐草をを描き始めると止めるのが難しい。機械的になってしまったら面白くない。少し荒れた感じを残すのが私好み。