俳人黒田杏子氏がお亡くなりになられました。御倒れになられたその前日、笛吹市の講演会場で手を振って別れたときのお顔が目に浮かび、いまだに信じられない思いです。
私は山の中に住んでいて、あまり人にも会わず暮らしていますが、毎月黒田先生にあてて投句することで、先生には見ていただいている、と信じ、それを、心の支えにしていたような気がします。不意に太陽が遠くなったような気分です。
ご一緒させていただいた寂庵の句会、西国三十三か所の寺々、懐かしい思い出ばかりです。そして、手元に残るたくさんのご著書。
プルーストが、「失われた時を求めて」の「囚われの女」の章で敬愛する作家ベルゴットの死に「永久に死んでしまったのか?誰がそうと言えよう?」と、神を信じない芸術家の、技術と洗練の限りを尽くして表現しようとしたこの世とは別の世界の理・掟のもとに魂が帰るのであれば、作家・ベルゴットは永久に死んだのではないという考え方にも真実がないわけではない、と書いています。
そして、「彼は埋葬された。しかし弔いの終夜、明かりのついた本屋の飾り窓に、三冊づつ並べられた彼の著書が、翼を広げた天使たちのように通夜をしていて、今は無い人にたいする復活の象徴のように見えるのであった。」(筑摩書房Proust全集8)と結ばれています。
二度と会えないという現実には、虚脱感を憶えますが、黒田杏子の句を読むことはできる。
花未だ読むことが忌を修すこと おるか
写真のお皿に
能面の砕けて月の港かな 黒田杏子
筆筒には
たそがれてあふれてしだれざくらかな 杏子
どちらも、拙宅にお泊り戴いた折に揮毫してくださったものです。