やきもの日和

やきものを作ったり俳句を作ったり

ヒヤシンス

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冬枯れの季節には、身近に生命の気配が欲しくて、ついやってしまいます。ヒヤシンスの水栽培。

「一粒の麦死なずは」じゃないけど一個の球根が崩壊しながら必死で花を咲かせようとしている。残酷なことをしてしまったようで後悔します。でも春ってそういうものなのかな。梅の蕾も硬い枝の表皮を破るように、芽を出すし、地面では種が真っ二つに割れて白い根を痛そうに地中にのばしてゆく。

 

  カワイソウ見つける遊びヒヤシンス  おるか

 

杉花粉の飛散が傍若無人のこの山中、部屋にこもって色を磨ります。上絵の色はそれぞれの金属を白玉と呼ぶ一定の温度で焼き付くように調整したガラスに溶かしたようなものなのですが、赤は、特に私の調整しているものは、ガラス分がかなり少なめ、ほぼ鉄分なので細かく磨るのが大変なんです。

単純作業をしながらオーディオブックを聞きます。今日は「荒野の狼」です。中学で読んで以来です。懐かしい。

私は小学校の五年生くらいの時に読書に目覚めてそれまでの、少年少女世界文学全集等を読まなくなったわけじゃありませんけど、好きな作家をまとめて読むようになりました。その最初の一人がヘルマン・ヘッセでした。中学の図書館ではヘッセの近くにトーマス・マンがあったのでマンも好きになりました。「魔の山」はかなり細部まで今でも思い出せます。

外国文学(ほとんどヨーロッパ・アメリカ文学)ばかり読んでいたので、自分はひょっとしてお伽話の王子様王女様の世界を引きずっているんじゃないかと内心忸怩でしたが、「荒野の狼」を聞いていてわかりました。日本文学には 荒野の狼」のヘルミーネのような自由な批判精神を持つ女性がいなかったから面白くなかったのだ、と。

明治の文豪にしても、たとえば漱石の、最も麗しい女性像、といえば「坊ちゃん」のばあやさんでしょ?古い意味のフェミニストと言われた谷崎潤一郎のあこがれの女性たち、「少将慈幹の母」だって人間じゃないよね。

今ではアニメやコミックの戦闘美少女たちが毎日のように生き死にを繰り返しているけど。逆に純愛は男同士の世界のものになってしまったのかな。