戴いた色紙の句という、ひどく限られた範囲での感想ですが、言葉の繰り返しの多いのが印象的です。俳句という極限的に短い形で同じ言葉を使うのは、かなり勇気がいると思うのですが、中央の色紙では、
花の闇お四国の闇われの闇 杏子
と三つも闇が使われています。意味の伝達よりリズムを!ということでしょうね。繰り返されるたびに、深々とした闇に招き入れられるようです。妖しく香しい花の闇、弘法大師と同行二人の四国の闇も濃密です。そして、われの闇。人の心の闇は最も暗く恐ろしい気もしますが、リズムに乗って繰り返されるうちに、どこか肯定されるような、闇に抱き取られるような心地さえしてきます。
右下の
深井戸のほとり花篝のほとり 杏子
フロイトの無意識イド、じゃないけど(寒っ)井戸を覗くとは、自身の無意識をのぞき込むこと。御能でも、井戸を覗くシーンはぞくっとしますよね。
花篝は明るいけれどかえってそのまわりの無窮の闇の拡がりを感じさせます。
その隣は
日の恵み月の励まし冬桜 杏子
こちらは、むしろ明るい句かもしれません。一見季節に外れているようでも、悠久の自然のめぐりの理の中に咲いている一木の花。
そして
石割って花の木となる箒星 杏子
盛岡市の石割桜、本当に木が割ったのか、石の割れたところに生えたのか知りませんが、ありえないものを見ているような気のする存在です。その木が今年も又花をつける不思議。箒星もまた、突然の天変地異みたいだけれど、そのじつは周期的にめぐってくるもの。どちらも人智を超えた、何者かの約束のようです。
咲き満ちて西行桜月満ちて 杏子
満開の花に満月、ゴージャス!でも「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」と詠ってそのとおりに亡くなった西行の桜ですから豪華絢爛の中に諸行無常の響きがあってひとしお味わい深い。
さて、最後は
ひとはみなひとわすれゆくさくらかな 杏子
芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す桜かな 」をふまえての句でしょうね。芭蕉の句は万人共感の句ですし、誰にでも忘れられない人がいるということも百も承知。
俳人黒田杏子は桜花巡礼をして、日本中の名桜を訪ね歩いた方です。平知盛じゃないけど「見るべきほどのことは見つ」と言えるくらいの桜花を御覧になったことでしょう。そして、寂聴尼、金子兜太、ドナルド・キーン、をはじめ、多くの忘れがたい方方との出会いをとても大切になさっていました。その上での一句です。
年年歳歳花相似たり
歳歳年年人同じからず
花の下に佇つとき、同じように花を眺めた多くの故人のことが偲ばれます。花を詠み描いた人たち、語り合った人たちも全て去ってゆく。ただ桜は年年に花を掲げ、人はその下に佇ちつくす。