やきもの日和

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猫文学研究その4 「猫に未来はない」

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猫文学研究その4


我輩はミケ。猫である。何を隠そう我輩は猫文学研究家である。

 先回はバルチュス伯のご幼少のみぎりの作品に触れたが、この夏、猫の王バルチュスの大展覧会が京都市美術館で行われている。これは、是非いかねばなるまい。
 この暑さの中で出かけるのは自殺的。あたかもプルーストの「失われた時を求めて」のなかで、文豪べルゴットがフェルメールの展覧会に病を押して出かけ、会場で息絶えるシーンが脳裏にちらつくのである。。

 さて、今回取り上げるのは、詩人長田弘の若き日の作品である。といっても詩ではない。ちょっと軽めを狙った小説である。

 はじめにことわっておこう。我輩はこの小説がきらいである。
題名からして「猫に未来はない」だと!チッ!

主人公の恋に落ちた女性が猫好きで、ぼろアパートで子猫を買い始めた二人は無知と経験不足から何匹もの子猫を死なせる。無知とはかくも残酷なものであるかとあきれるばかりである。
そして、その若い奥さんが、いうことに「猫に未来はないのよ」。ハァ?!
これは、猫には未来を思考する脳がないということらしい。ケッ笑わせる。

 そうとも、われら猫族は永遠の現在に生きている。輝かしい一瞬一瞬に帰家穏座している。禅僧も見習うべき境地であろう。
 人間どもは、未来を考えられるというが、温暖化はじめ問題山積みのまま、その付けを未来に回していくのが、そんなに優れた能力なのか?この現在は未来を考えて作ったとでもいうのか?笑わせる。
と、いうわけで我輩はこの作品は大嫌いなのである。

しかし、つけくわえておくが、おるかのやつは長田弘の詩やエッセーが大好きで愛読している。我輩も、それらのたくさんの作品をほぼ読んでいるつもりだが、真摯で誠実さのにじむ言葉に豊かな感性が偲ばれて好ましい印象を持っている。
 だがしかし、詩人にして猫感覚を持たぬとは、惜しい。実に惜しい。
ミロのヴィーナスは両手を欠いて美しいが、詩人にして猫感覚を欠くとは、我輩にしてみれば両手の他に貌も欠いたほど残念なことである。
ん?サモトラケのニケはそれでも美しいだと!?ええい口の減らない人間め。
サバトラケのニケにでも噛まれろ!居たんですよ、昔、ニケって猫がね。もちろん さば虎。